最後の八月


むかし。
東京にいる頃、それも最後の頃ですが、私は独自であそびを発見しました。
それは、「今月で私の寿命は終わることになっているゲーム」です。

月半ばに、それを思いつきましたので、寿命はあと二週間ということになります。

その日から、

この人とお酒を飲むのも最後、この会社に打ち合わせに行くのも最後、ここでタクシー拾うのも最後と、
あらゆる行為は、「次はない」というひそかな思いとともに行われます。

新宿駅で人と待ち合わせるのも最後だ、と思うと、雑踏がうつくしく見えてきます。
アナウンスの声も、見知らぬ人の顔も声もなんだか快い、いとおしいものになります。
時間がなくて気持ちがせいているときも、
ここのエスカレーターを急いで降りるという行為をするのも最後だ、という考えが浮かぶと、
気ぜわしさがふっと消えて、永田町の駅の構内にたたずむ自分をゆっくり味わってしまったり。

「あと二週間で死ぬことになってるゲーム」を始めてからというもの、私は日ごと、明るく元気になっていくのを自覚していました。
この明るさは、未来を憂えず、今に集中しているからでてくる明るさであることはマチガイない。
二週間がたち、月末を迎えてゲームを終了したとき、これはいいことを発見したと思いました。

誰かに教えてあげたい一心で、
友人のデザイナーに、この人なら、このゲームのおもしろさを分かってくれると思った人に、

「今月末に私は死ぬことになっているというゲームをしてたの」

と話しましたら、

「大丈夫? うつとかじゃない?」 

といわれて、びっくりしました。
鳩がまめでっぽうくらった、という顔になってしまい、二の句が告げなくなったのを覚えてます。
これの何が楽しいのか? これ以上説明できません。やってみてもらうしかないです。

次はないかも、と思いながら、知人と別れるとき、いつまでも、相手のことを見送りたくなります。
私とこれまでつきあってくれてありがとう、と思いが浮かんできます。
ああ、ほんとに、今日、わたしと時間を共有してくれてありがと。すまないねえという気持ち。

やらないと理解できないかもですが、
お茶碗を洗うのも、納豆かきまぜるのも、電車の切符を買うのも、これをあと何回やれるか、と思いながらすると、
動作が前と違うものになります。

二週間でやめずに、これから先はずっと、「今月末でわたしは死ぬ」と思いながら生きていこうかな、
と思いかけていたけど、結局やらなかったのは、どうしてだったのか、忘れました。


昨日、友人とお茶していたとき、携帯メールに目をやった友人の顔が歪みました。

「知り合いが亡くなった・・・」というのです。

「前にあったとき、その人からお茶を飲んでいきなさいといわれたのに、私は次があると思ったから
またにします、と言ったけど、次なんかなかった」

友人はそういって泣きました。

次なんかない。

そう思いながら生きていくゲーム、今日から始めようかな。
今年の8月が、肉体をもって味わえる最後の8月かもしれない、と思えば、
地球の自転する音が聞こえるくらいの精度で瞬間を味わうことも不可能ではないかも。
8月は今日まで? 今日で終わる、と思いながら今日をいきるのは難しいな。
だって
明日は、野菜発送の日だから。
明日、大根いただきにいきます~の約束をいまさら反古にできません。


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