生と死のまんなか

過去に3人くらいの、ごく親しい友人が私に同じことを言いました

そして、その三回とも私はまったく、彼らの気持ちが理解できませんでした。
何を言われたかというと、

「健康診断で、要精密検査といわれた、がんかもしれないといわれた」

というようなことです。言ってはなんですが、ものすごい大騒ぎでした。

それがどうしたの? がんになったらそんなに困る?

と思いました。

本人を前にしてそれはいえませんでしたが、
いえひとりには言いました。
それを機に絶縁されてしまいました。

がんかもしれないといわれてそんなに困るヒトがいるのか、と

おどろく私は、単に想像力が乏しいせいかもしれないと思っていましたが

このたび、彼らの気持ちを追体験することができて、
やっぱりそんなことでおろおろするなんて、理解できない
と思うのでした

しかし
事の発端から半年がすぎた今、私が彼らの気持ちを理解できないのは
1、自分の気持ちに蓋をして無理している
2、やけになっている
などなどの心理的な作為的なかわいそう的な
心のあらわれ
かもしれないと
疑うにしくはないと思って、疑うのを続けていましたが、やはり、どうしても、私のなかには

しぬのがいやだ

という気持ちがないことがわかります
生というのは、生れ転げ落ちてオギャーといった瞬間から死へ向かって一直線
その坂道を邪魔するものはないのであります

健康法とか健康食とかは、趣味みたいな人生のいろどりみたいなもので

とにかく
スキーで
小山をすべりおりていくのが
人生でもあり
例外ないです
よね

それが
わかっているのに

なんで

を特別扱いして
忌避しないといけないと思うのかわからない

と思っています

私が特別変人なのか
まあ最後まで疑わないといけないのは、すでに私の心理的なんたらが病んでいるのか

そういう思いで

トキオの友人あやこさんに昨日でんわしたら

3秒の説明で

わかるーーー


といわれてしまい、あ、よかった


と思いました


私がそう思っているのは、わがだーりんさまにはばればれで
言われちゃったこともあり、
なんて彼はこんなにもかんがよくて、頭がするどいのかとほれぼれしますが


いやいやいや
ここでのろけたいのはありませんので


手術から半年がたとうとしております
ずっと思っていたけど、やっといってもいいかなと

生きているのと死んでいるのの差は
外国に移住するくらいのものではないかと
思っています
それがまちがっている
といえるひとは
死んだことないひとが
生きているヒトの大部分だから
あまりいないと思いますが
もしいても
反論はいりませんので


うちのだーりんにいわれたのは

キミは自分のことしか考えない

ということ
確かにヒトが死ぬのは私だっていやです
だれもかれも私より長生きしてくれないといやだ

そういう気持ちが私に、養生という観念を生活にいれてくれたのですが

あんまりモチベーションとしてはパワフルではなくて
なんかーーもう少し
ほしいですね

おっとは

くーちゃんが15年はいきるから
くーちゃんを母なき黒シバ犬にしないようにしようと思って15年生存を目標にしなさいといいました

あたし的には、そういうのって、あんまり・・・
くーちゃんは私がいなくても餌も愛も、もらえるもーーん

わやしが
生きることに
前出の三人の友人ほど
真剣にとりくむことができないのは、子がないせいかと、
それは可能性として思いますが

ないもんはないんで、確証を得られません。

アヤコサンが

「明日しんでもおっけー」

といったのは、まさに私の言葉でもありまして

やり残したとか、思い残した、とかぜんぜんない
毎日、毎日、なんとわたしは、めぐまれているのか、かみさまさんくう

と思っています

こんなことを書いていると

わたしはひょっとしてもうすぐ死ぬのかな
とか疑われるかもですが、とりあえず予定はないです

予定なんか、全員ないですよね

最近
周囲に
シヌヒトとか
シヌカモシレナイヒトとか
いますけれど、生と死の間にいるかぎりはみなさま平等ですから
だれも、でかい顔はできません


順番を突如やぶってしまうヒトはいますからね


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