最高の出来

今日じゅんこさんとキムチを仕込んでおりました

「前回のキムチはこれまででいちばんよくできたね」と、じゅんこさんから衝撃発言。

「え、そうだったの?」と驚いて聞き返しました

「白菜の水気をもうすこし抜いといたほうがよかったなあと思ってたんだよね」
私が言うと、

「うん、仕込みの直後はそう思った。けど、今食べているとおいしい、わたし、これが今まで私はいちばんおいしい。たれがこないだのは重かったから、結果的にちょうどよい塩梅になったみたい」

じゅんこさんがおいしいというのと私がおいしいと思うのは、普段あまりずれないのですが、これにはふむう・・・ 

「これまでのベストってわけじゃないと思うな」

一人でつくるより二人でつくるのがいいのはこういうことですね
ひとつの頭でやるよりふたつの頭
意見が固まらないでいられる
なんとなく私、前回の白菜の処理に思いを残してました
だから昨日の仕込み用意段階は、いつもより周到にチェックをしつづけ、就寝は午前2時。朝の6時にはおきて、また白菜チェックするというねちっこさ。ずぼらなくせに、カンペキ主義な神経質。
じゅんこさん、あきれかえる。
こんなことをしていると、仕事じたいが継続不能になってしまうのでもうしません。

キムチって旬の野菜を多種使います、それらがその時々で水気の含み具合を同じにしてくれないことが、けっこうこまりもん。水気を同じように抜くとか、同じようなしんなり具合とか、「同じように」は重要じゃないけど、それぞれがどういうふうに、今日の塩に反応するか、それを気にしても気にしても、予想を現実に一致させるなんて無理。

先日お客様から「キムチは毎回同じにつくるのは、むずかしいですから、あまりその方面に神経質にならないように」
というような内容のメールをいただき、うわ、バレバレだあとうれしくなりました。
メールレターでちょっとキムチに神経質な片鱗をチラだししたら、すかさずひろっていただきました

最高のキムチをつくりたいなんてめっそうもありませんので、思ったこともありません
でも、ちょっとでも、いい出来にしたい、と毎回毎回思っているので、作るたんびに心は初心者です
私は昔から「しあわせになるハードルが低い」と周囲から言われていて
簡単にしあわせになってしまうといわれるんですが、昨夜深夜まで、真剣にも真剣に白菜に塩しながら、なぜか仕事とはおもってない、楽しんでいる自分がいました。

できない! とかできた!とかそのはざまで、チャレンジするのがかなり好きです
これを変態といわれたこともありますが

うちの園主に「過去に最高に不幸だったのはどんなとき?」と出会ったばかりのときにききましたら
「おれ不幸になったことがない」というのが答えでした
そんな人いる? と思いましたが、彼を知る年月を重ねますと、そのとおりだとわかってきました。仮に、「最高に幸せだったのはいつ?」と聞いたとしても、「そんなの経験ない」というに違いない。

何かが鋳型として答えとしてあるのなら、それにたどりつけることを目標にするのでしょうが、私たちふたりとも

「こういうのは●●じゃない」
「●●だったらこうしなくては」
という考え方ができないし、その手の努力ができない。したことがない

そもそも●●ってみんなが思ってるとおりなの? と思う人たち
それを知りたく、好奇心にぴっぱられて夢中になるのがパターン。仕事よりどこか子供の遊びに似るのはなるほどそういう理由ですか。


当然ですが「農家のツマだったらこうしなくては」も「ツマたるものこうしなければ」などなど、そんなのもなし。なしというより無視。しゅうとめはこの手の動物になれるまでたいへんだったでしょう



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